愛し君へ

次の日、天蓬元帥は、まさにいつもの天蓬元帥だった。
一部のすきもない。あれだけ乱れたあとなのに、疲れの色も無い。

おかしいのは捲廉のほうだった。何かに気を取られているのか、何も無いところで転び、壁にぶつかるところを、人に見られもした。
「まるで、心ここにあらず、といった感じですね」
と通り掛かりの人にからかわれて、捲廉は赤くなった。
俺とした事が、なんてざまだ。みっともねえ。しっかりしろ。
午後から大事な軍会議がある。天蓬も来るだろう。どう言う顔をして逢えばいいかわからない。普通にしていられる自信がなかった。こんな気分ははじめてだ。
どうせ向こうは、蚊に差されたほどにしか、感じてはいまい。
だが俺の胸は、あんたを抱いたという事実が夢ではないかと危ぶんで、こんなにも激しく高鳴っている。どきどき、してる。
「くそ。落ち着け」
自分に言い聞かせながら、捲廉は、こぶしを握り締めた。

軍会議で、天蓬が入ってきたとき、一同ははっとして、立礼をし、そのまま立ち尽くした。
「どうしたんですか、皆さん。御着席ください」
天蓬の副官に促されて、一同は我に帰り、席につく。
ざわめきが広がった。
「今日の天蓬元帥・・・一段と艶やかだな。色っぽいとゆうか」
「もともと綺麗なひとだけど、なんか迫力がある。ほんと、美人なんだな」
「あんな方に指揮されるなら、無給でもいい」
ひそひそひそひそ。下世話な話が続く。
「いい加減にしろ」
捲廉軍大将がそれを制した。あたりは水を打ったように静まり返った。
天蓬が笑っている。いつものように優雅に、嫣然と微笑んでいる。
「ありがとう、軍大将。それでは、始めましょうか」

夜。執務室に戻ると、捲廉が追いかけてきた。
「これっきりってことはないよな」
「なにがです」
空とぼける天蓬の表情は硬かった。
天蓬は珍しくいらだっていた。
「今日の態度はいただけませんでしたね、捲廉。あれではなにかあったと勘繰られる。貴方は賢いひとなのだから、わかってるんでしょう」
抑圧的な言い方に、捲廉はむっとした。
「あんたこそ・・・よく何も無かったような顔で、笑えるな」
「とにかく、一度きりの約束でしょう。負けは払いました」
「気持ちよくなかった?」
捲廉が言った。真剣な声だった。
天蓬は言葉を慎重に選びながら、子供をあやす様に、柔らかく言った。
「気持ち、よかったですよ。すごく。さすが百戦錬磨との噂だけはあるなあ、と感心してました」
「じゃあ、続きをしようぜ」
「今日の会議で、この関係を続けるのはまずいと判断しました。それだけです」
取り付く島の無い言い方をされて、捲廉は黙った。
「そんな言い方で・・・俺を止められると、本気で?」
「けんれん?」
「くれないなら、力づくでも奪う」
両手首を掴んで、壁に押しつけた。強引に唇を塞ぐ。
熱い・・・。天蓬の息が漏れた。
「頼むよ・・・朝からずっと、考えてた・・・どうしたら俺のモンになるんだって・・・答えは無かった・・・あんたは誰の物にもならないから」
身を翻して、天蓬は反対側の壁に逃げた。息が切れている。
「今日は・・・帰ってください。彼が、来る」
「おまえ」
捲廉は辛そうに天蓬の顔を眺めた。いつものからかうような余裕はまったく無い、切羽つまった表情で。
「残酷だな。俺に抱かれた体で、あいつに抱かれる気か」
「人でなしみたいに言わないで下さい・・・捲廉。お願いですから」
「わかった。でも、明日は俺の番ね」
「そんな。モノポリーじゃないんですけど」
「約束ね。守れよ」
ようやくほっとしたような余裕を取り戻して、捲廉はひらひらと手を振ると部屋を出ていった。
「持つかな・・・からだ」
天蓬は眼鏡をかけなおした。そのまま力ガ抜けて、ずるずると床に座り込んだ。
「・・・もしかして、泥沼。かも」