雫 ―― 後編 ――
それ以来、天蓬の口数はめっきり減っていた。
衰弱が著しいのがその主な理由ではあった。
定期的に運ばれる食事の時間、いつもならば李塔天の使いの者が訪れるのにその日は違った。
「 ・・・ 無様だな 」
聞き覚えのある声に顔を上げると、それは西海竜王だった。
「 食え。このままくたばるつもりか? 」
「 悪いけど、手ぇ使えないもんでね。でもあんたに食べさせてもらうのだけはカンベン
」
かろうじて口の端に笑みを浮かべると、彼は小さく笑った。
「 その調子じゃ大丈夫そうだな 」
苦手だと思っていた赤い目が細められるのを捲簾は不思議な思いで見つめた。
「 ・・・ お前 ・・・ ? 」
「 今日、李塔天が天帝の元へ行く。多分お前達の処罰を決める為だ
」
「 ・・・ へぇ−・・・ 」
「 天帝の裁きは避けられない。もう誰にもどうする事も出来ない。が、お前にこのまま黙って消えられたんじゃ目覚めが悪い
」
彼が何を言おうとしているのか計り兼ねて、捲簾は促す視線を送った。
傲潤の手の中でじゃらり、と鍵が揺れる。
「 最後の機会をやる 」
「 ・・・ 本気 ・・・? 」
呆然とする捲簾の手首の枷を手早く外すと、彼は捲簾に銃を渡した。
「 外すなよ。小さいが神一人消滅させるには十分だ
」
――――― 消滅 ・・・ 。
それは文字どおり、完全に消し去る事だ。
天界は無殺生を掲げている。
反乱分子や天界に仇なす者達を片付ける時、とる方法は“
封印 ”もしくは“ 下界落ち ”と決まっているが、“
消し去る ”という方法もなくはない。
下界に討伐に降りる軍人達の中にも、刃向かう敵に消滅させられた者達がたくさんいた。
輪廻の輪に戻る事も敵わない、完全なる無。
それが下界ではなく、天界で行われるというのは歴史上ない筈だ。
「 ・・・ 僕が、やります 」
手の中の重みを見つめる捲簾に、隣から天蓬が声を掛けた。
「 もともと僕がやろうとしたのはそれですから。彼を消します
」
傲潤は隣へ視線を向け、静かな足取りで天蓬の元へ向かった。
かちりと音がして暫らく、天蓬はゆっくりと捲簾の牢の中へ足を踏み入れた。
久し振りに見る戦友の顔はひどいものだった。
白い頬はごっそりと肉が落ち、伸びた髪は乱雑に肩に落ちている。
しかし、やつれてもまだその美貌は失われてはいなかった。
「 元帥、貴方はこんな事をする方ではないと、思ってました
」
顔を伏せ、傲潤は辛そうに言った。
そんな彼を振り返ると天蓬は微笑んだ。
「 買い被りですよ。僕は、ただのばかです 」
二十日以上も地下に繋がれて、心身ともにぼろぼろで。
そんな筈はないのに、天蓬は綺麗だった。
捲簾は銃を握り締めて傲潤を見上げた。
「 こんな事してお前も只じゃ済まされね−ぞ
」
「 それは承知の上だ 」
傲潤は少しの沈黙の後、無表情で呟いた。
「 ・・・ ばかが、伝染った 」
「 そっか 」
捲簾は小さく笑った。
二人は急いで身なりを整えると階上に上がった。
ここまで来たら目的は一つだ。
天蓬の心残りはこの際無視するしかない。彼も、覚悟の上だから。
幸い、誰にも見咎められず李塔天の居る筈である部屋の前まで辿り着いた時、そこには思いがけない人物がいた。
「 ・・・ 悟空 ・・・ 」
思わず呟いた捲簾の声に顔を上げて、悟空は目を見開いた。
「 捲兄ちゃん、どうしたの? 」
「 お前こそ何やってんだよ? 」
驚く捲簾と天蓬を交互に見つめて、悟空は眉をきつく寄せた。
「 俺、あいつとちゃんと話し合いたい。俺が傷つけた事を謝りたい。・・・それから、俺を殺そうとした事、嘘だって、間違いだったって、・・・
あいつの口から聞きたいんだ 」
俯いた悟空に天蓬は静かに近寄った。
「 解かりました。けじめはつけなくてはいけませんね。・・・
悟空、金蝉はこの事知ってますか? 」
「 寝てる間にこっそり窓から出てきた 」
天蓬はその整った唇から安堵の溜息を漏らすと、捲簾を振り返った。
「 ・・・ 知らね−ぞ 」
悟空の叫びが聞こえた。
“ どうしてだよ ”
彼は繰り返し叫んでいた。
痛々しいその叫びから目を逸らし、天蓬は己の敵を見つめた。
勝てる自信があるのだろう、李塔天の瞳は嘲笑うように天蓬を見下ろしている。
彼に忠実な殺人人形は、歯を食い縛り、涙を流して友と戦っているというのに。
遠い。
ナタクは圧倒的な強さで彼らの前に立ちはだかっていた。
不意に、押さえ切れない叫びと共に悟空の膝が折れた。
「 悟空! 」
驚いて駆け寄る天蓬と捲簾の前で、彼の金鈷が音を立てて砕けた。
悟空の外貌が変わっていくのを二人は息を呑んで見つめていた。
「 ・・・ 悟空 ・・・ 」
金の瞳は真っ直ぐにナタクに向けられている。
次の瞬間、信じられない早さで悟空は標的を押え込んでいた。
あれほど敵わなかった相手を易々と床に捻じ伏せ、攻撃を加える。
―――― これが、天界が恐れた力 ・・・ 。
幾つもの封印で押え込まれた悟空の本来の力。
しかし、この悟空には何も見えていないように思える。
妖力制御装置である金鈷は悟空の戦いの本性を制御するものでもあったのだ。
「 ・・・ 止めねぇと。殺しちまうぞ、あいつ 」
捲簾がぽつりと漏らした言葉に思わず問い掛ける。
「 どうやって、止めるんですか? 」
「 引き込んだのは俺達だろ。何とかするしかねぇじゃん
」
捲簾は険しい表情を浮かべたまま天蓬を振り返った。
「 後の事は考えるな。お前は自分のする事だけ考えろ
」
言いながら捲簾は悟空へと飛び掛かって行った。
その、悟空よりも一周りも二周りも大きい身体があっという間に壁に叩き付けられる。
「 捲簾! 」
「 こっちを気にするな! 」
捲簾に言われて天蓬は弾かれたように李塔天を見た。
彼の表情からは笑みが失われ、蒼褪めているようにさえ見える。
天蓬は躊躇わず銃口を向けた。
全てを己の僕に任せきりだった李塔天は、慌てて背後の壁に飾ってある弓を手に取った。
―――― 遅い。
天蓬は引き金を引く瞬間浮かんだ、自分の笑みに気が付いた。
狙いは完璧だった筈だ。
天蓬の手の中の銃から飛び出した弾は確実に標的の胸を貫いた。
しかし、それとほぼ同時に李塔天の放った矢がこちらに向かっているのを避ける術はなかったのだ。だから、天蓬はその瞬間を待った。
無になる瞬間を ――――― ・・・ 。
それが、白い影に遮られて紅く染まるまで何が起こったのか解らなかった。
「 ・・・ え ・・・ 」
刺さった矢は金蝉の肩に深く食い込んだまま、傷口から鮮血が溢れている。
「 どうして ・・・ 」
呆然と目の前の光景を見詰める天蓬に向けられた金蝉の視線。
彼の瞳に映っていたのは恐怖でも諦めでもなく、憎しみ
―――― 。
天蓬に対する憎しみ。
最後まで彼を裏切ってしまった、これは罰。
守る、という事の意味を間違えたのだ。
「 どうしてお前らは、勝手に何もかも終わらせようとする・・・
? 」
苦しげに荒い息を吐き出しながら金蝉は天蓬に語り掛けると、悟空へ向き直った。
「 ・・・ サル 」
悟空の肩がぴくりと反応する。
「 お前の飼い主は俺だ。勝手してんじゃねぇよ
」
金蝉を振り返った悟空の瞳に映る狂気。
「 金蝉、危ない! 」
天蓬の叫びと同時に、金蝉に飛び掛かった悟空は金色の光に包まれた。
どこからともなく金鈷が現われ、その額にぴたりと嵌まる。
途端にがくり、と力が抜けたように悟空は金蝉の腕の中に崩れ落ちた。
「 どいつもこいつも・・・ か、」
金蝉は呟くと意識を手放し、悟空を抱いたまま床に倒れた―――――
。
完全な、失敗。
天蓬は呆然としたままこの事実を受け止めた。
捲簾と自分に対する罰は恐らく下界に落とされる事。天上人にとって死よりも恐ろしい罰、といわれるものだ。
それはいい。覚悟の上だった。
だけど、彼は・・・。金蝉と悟空はどうなるのだろう。
二人を巻き込むつもりなんてなかった。
縋るように見上げた天蓬の視線の先で捲簾は笑った。
「 言っただろ?あいつが大人しくお前の生き様見てるワケねぇって
」
「 そんな問題じゃ・・・ 」
「 そうだって。お前がもっと素直になってりゃ少なくともあいつはこんな風に関わってこなかった
」
「 僕は、守りたかった。・・・ それだけなのに
・・・ 」
項垂れた天蓬の肩を抱くと、捲簾は声を低くした。
「 知ってるか?下界に行くって事は“最期”の想いに捕まる事なんだって。つまりお前は大事なものを守れなかったと永遠に苦しむってコト。考えるな
」
「 無理です・・・ 」
「 生憎オレは捕らわれるものなんかないが・・・
」
捲簾は言葉を切ると、視線を泳がせた。
「 捲簾? 」
「 イヤ、考えんの、やめよう 」
そう言った捲簾はどこか遠くを見ているようで、天蓬はふと気がついた。
彼にも捕らわれる“想い”が在るのだという事に。
金蝉は何に捕らわれるのだろう。
―――― 僕に対する憎しみであればいい ――――
罰が欲しかった。
ただ、それだけを求めていた。
捕らわれてしまったのだ。
柔らかい光を纏う月に。
その時から歪みはじめていた何かが、全てを壊してしまった・・・
。
「 変わるんだよ。退屈なんか、二度としないさ
・・・ 」
最期に、呟いた観世音菩薩の言葉が頭の隅に残り、その慈愛に溢れた表情に何故か安堵を覚えた。
終
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こんなんで終わっていいのでしょうか?
今すぐ削除したいくらい嫌気が差してます。この天蓬おばかさん。
ナタク、字が出ないの…(滝涙)