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――――苛々する。
いつからだろう、コイツを見て、苛立ちを覚えるようになったのは…。
短くなった煙草を灰皿に押し付けながら、三蔵は悟空と悟浄を相手に談笑している八戒に目をやった。その態度はいつもと何の変わりもなく、飄々として見える。
「何か、最高僧様、機嫌悪ぃ?」
「いつものことでしょう?」
「こういう時は、喧嘩すんのよそうな、悟浄」
( 聞こえている。)
こそこそと話している三人から目を逸らすと、三蔵は再び煙草に火をつけ、新聞に目を落とした。

半時位過ぎた頃、八戒は三蔵に新しい灰皿を差し出した。
「落ちますよ、灰。」
そう言われて、今まで使っていた灰皿が既に一杯なのに気付く。
いつもなら、吸いすぎだの、火事に気を付けろだの、付け加えられる科白がない事に、三蔵は気付かない振りをした。
一杯になった灰皿を片づける八戒に、なんとなく目を向けて、その、晒された項に思わず見入ってしまった。

そこに、口付けたのは、一月も前の事だった。
無性に傷つけたい衝動に駆られて、三蔵はその欲望に従った。八戒も特に抵抗はしなかった。後悔はしていない。相手がどうかは、知らないが。
しかし、その翌日も八戒はいつも道りの態度で、三蔵に接してきた。それを見て、少々拍子抜けしたのを覚えている。
くだらない、自分は何をしたかったのか。
それ以来、三蔵も八戒を特に気にするのをやめていた。
しかし、押さえ切れない苛立ちは、その日から確実に募っていたのだが…。

「悟空、悟浄、久し振りに、やりますか?」
そう言うと、八戒はカ−ドを二人に見せた。
「いいねぇ、久々にコテンパンにしてやるよ、サル」
「サルって言うなっ!俺は今日は勝つ!!」
言い合いを始めた二人を尻目に三蔵は、関係ないとばかりに、さっさとベッドに入ると背を向けた。
「あれ?三蔵はやんね−の?」
悟空が声を掛けるが、三蔵はそれを無視して、寝る事に集中した。
明日も早い、コイツらに付き合ってられるか。―――そう、思っていた。
悟浄の一言を聞くまでは…。
「それにしても、八戒から言い出すなんて、めずらしくねえ?」



実に、一月振りの宿だった。野宿や、小屋などで夜明けを迎える生活が続いた為、皆、疲れきっていた。しかし、八戒にとってはそれが丁度、都合良かった。
三蔵と二人きりになる機会が少ないからだ。
どうして、彼があの様な行為を仕掛けたのか、八戒には解らなかったが、何もなかったと割り切る事は、どうしても出来なかった。
いつも通りに振る舞っていたのも、表面上だけのことだった。
仲良く一つのベッドで寝てしまった、悟空と悟浄に毛布を掛けながら、
「やれやれ…」
と、溜息を吐く。
―――今日は、二人部屋が二つ…。
疲れて寝てしまった事にして、このままこの部屋に居ようか…。
それとも、意識のし過ぎかもしれない、三蔵はもう忘れているだろう。このまま旅を続ける為には、自分も忘れる努力をした方がいい。
そんな事に頭を巡らせていると、不意に部屋の扉が開いた。
ぎくっとして、そちらを見ると、寝ているとばかり思っていた三蔵が居る。
「・・・あれ、寝たんじゃなかったんですか?明日も早いんでしょう?」
慌てて笑顔をつくると、八戒はわざと明るく声を掛けた。
「避けてたのか」
三蔵の言葉に八戒の顔が強張る。
「なんの事です?僕が三蔵を避けるわけ、ないです」
「お前が俺を避ける、といったら、あの事しかねぇよな?」
「三蔵!」
八戒は思わず、制するような声を出してしまった。
――――まずい、と思ったが遅かった。これでは、肯定しているようなものだ。
「・・・やめて下さい。二人が、いるんですよ?」
そう言って、ちらりと、隅のベッドで寝ている悟空と悟浄を見た。
起きた様子は、ない。
「知られるのが、怖いのか?」
三蔵はそう言うと、乱暴に八戒の腕を掴んだ。
その、加減のない力に、八戒の表情が苦痛に歪む。
「泣かせてやろうか、今、ここで」
その言葉に我に返り、八戒は三蔵の手を払い除けた。
「簡単には、泣きませんよ」
言い返しながら、八戒は激しく動揺していた。彼の、行動の意味がわからない。何か、彼を怒らせる原因が、自分にあるとしか思えない。
悟空と悟浄を起こしてしまおうか…。
ちらりと、そんな考えが過ぎる。だが、それを見透かすように、三蔵が笑った。
「怖いのは、俺か?助けてもらうか?」
はっとして、彼を見た。
――――怖いわけなど、ある筈がない。
三蔵は、恩人だ。
その、他人を引き付けて止まない容姿も、独尊的な態度も、必ずしも彼の内面を現すものではない、という事に、八戒もようやく気付き始めていた所だった。
関係ない、という顔をしていながら、悟空を庇った三蔵。
大罪人の自分を、生きる方向へと導いたのも彼だ。
悟浄ですら、彼には特別な物を感じている。
触れる事など、決して有り得ないと思っていた。
ましてや、彼からなど・・・。
「貴方を怖いなんて、思える筈、ありません」
やっと、その一言を口に出して、八戒は三蔵に場所を変えるよう、促した。

もう一つの部屋へ移動すると、三蔵は徐に自分のベッドへ座り、煙草を取り出して、火を付けた。八戒は扉の前に立ち尽くしたまま、その様子を眺めている。
「・・・誤解なんです。僕は、ただ、貴方を怒らせない様、大人しくしていただけです」
とにかく、三蔵に言い含めるよう、ゆっくりと言葉を紡ぐ八戒に対して、三蔵の視線は冷たいままだ。
「何だ、それは」
「ですから、何か、僕が三蔵の気に触ったのだったら・・・」
「お前の言う事は、解らねぇな」
「・・・・」
何を伝えればいいのか。
それすら分らなくなってくる。
次第に、どうでもいい、という思いに支配されつつある自分を叱咤して、八戒は絞り出すように、続ける。
「三蔵が何をしたいのか、僕には理解する事はできません。
…ただ、もう、僕には触らないで下さい。八つ当たりでしたら、他の方法でお願いします」
八つ当たりか、と呟いて、三蔵はくくっと、喉の奥で嘲笑った。
「じゃあ、あの時にそう言って、抵抗すりゃいいんだ」
八戒は、じり、と後退ると、三蔵に背を向け、扉のノブに手を掛けた。
「僕の話しは、ここまでです」
その手に、ひやりとした三蔵の手が重なる。
「俺の用事は、これからだ」

首筋を這う冷たい感触に耐えながら、八戒は叫ぶようにその名を呼んだ。
「・・・・三蔵・・・!」
やめて下さい、と言っても、三蔵の手は八戒の手を壁に縫い付けたまま、びくともしない。だが、本気で抵抗していたら、恐らくはそうではなかっただろう。
力が抜けていくのを感じる。
でも、ここで彼を受け入れてしまったなら、自分は結局、後悔する事になる。
焦がれているからこそ、振り切らねばならない。
――――あの時、嘘でもいい。譬え、欲求の向かう先に、偶々自分がいただけだったとしても、構わない。そう考えて、彼の一番近くにいる時間を過ごした。
理由がそうだった方が、楽だったから、かもしれない。
八戒は諦めたように身体の力を抜くと、左の耳へ手を添えた。
「これを外した僕でも、抱けますか?」
三蔵は八戒の指が辿る、カフスへと目を向けた。
それから、八戒の瞳を覗き込む。その、深い水の色を思わせる、碧緑の瞳は語っていた。
―――全てを受け入れる覚悟がないのなら、手を引け、と。
「―――試してんのか?」
びくっと、反応した八戒を確認すると、三蔵はカフスへと手を伸ばした。
「上等だ」




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