雫 ―― 前編 ――
白い姿が血に染まる。
僕はそれを信じられない思いで見つめていた。
金蝉が自室に拘束されてから一月が過ぎようとしていた。
悟空が、殺されかけたのだ。
“殺人人形”と呼ばれる少年に。
悟空の初めての友人だった。
けしかけた奴は誰だか、もう解っている。
しかし金蝉が気がついた時、既に悟空は虫の息だった。
金蝉の部屋に運び込まれ、事情を聞くまで何が起こったのか把握出来なかった。
悟空の両手両足首の枷が外されている事に驚き、悟空を運んできた者に問い詰めた。
抵抗できない悟空を見かねて枷を外したのは、捲簾。あの男だという。
枷を外された悟空の力は想像通り凄まじいものだったらしく、一気に天上界全体に広まり、悟空は恐怖の対象となった。
悟空を引き出せ、と何度も訪れる役人に金蝉は使える限りの権限をもってそれを退けていた。この部屋から、悟空の側から離れる事が出来ないのはそんな理由からだった。
うろうろと落ち着きなく部屋の中を歩き回る金蝉に、低い声がかかる。
「 チビは?目ぇ覚ましたのか? 」
観世音菩薩だった。悟空は今だ目を覚ます様子もなかったが、それを伝えるよりもまず溜りに溜まった一月分の文句を言いたかった。
「 遅ぇよ!手前、今までなにしてやがった!?
」
「 ・・・ 怒って当然だな。俺も遊んでた訳じゃねぇが。
・・・やってくれるぜ、どいつもこいつも 」
睨みつける金蝉を見返す瞳には、めずらしくからかう色はなかった。
その事が更に金蝉を不安にさせる。
「 ・・・ 、何が、あった・・・ ? 」
「 天蓬元帥と捲簾大将が李塔天に刃を向けた
」
「 ・・・ 何、だって ・・・ 」
その口から出たのは信じられない事実だった。
「 失敗だ。地下牢に入れられている 」
「 ・・・ それは、いつ ・・・ 」
「 チビがやられた直後だよ 」
「 ・・・ 生きてっか−? 」
暗く冷たい牢の中、捲簾の声が響いた。
此処へ入れられたのは二度目だが、今度は一人ではない。
固い壁を挟んだ隣には同じ様に拘束された天蓬がいる。
「 何日になるか、判るか? 」
「 ・・・ かれこれ、二十日は過ぎたでしょうか・・・
? 」
絞り出すように、か細い声が聞こえてきた。
悟空がやられた後、まさか天蓬があんな行動に出るとは思わなかった。
しかも、捲簾に一言の相談もなくたった一人で。
「 ・・・ お前さあ、何で一人で行ったワケ?オレに近付いたのはオレの配下にある軍が目的だったんだろ?
」
あれだけの人数があれば、反乱も革命も成功したかもしれない。
部下は確実に自分についてくる、自慢ではないが捲簾はそう自負していた。
「 ・・・ 李塔天が許せなかった。・・・ それだけです
」
――― 結局、天蓬は巻き添えが出る事を恐れたのだ。
捲簾はそう思った。失敗すれば勿論、成功しても敵味方共に犠牲はある筈だから。
少しの沈黙の後、再び天蓬の声が聞こえてきた。
「 仕留める自信はあったんですよ。・・・まさか、彼が出てくるとは思わなかったですから
」
「 “ 殺人人形 ”・・・ ね。あいつ、やっぱり李塔天の犬だったんだな
・・・ 」
悟空を傷つけて、尚もあのジジイに付くその理由が解からない。
捲簾が吐き捨てるように言ったその時、足音が近付いてくるのに気がついた。
「 ・・・ いっそ、死ねたら、と思いますね ・・・
」
力なく呟いた天蓬の言葉に捲簾は唇を噛み締めた。
「 死ぬなよ。いいか、あいつを殺すのはオレだ。お前はそれを見届けろ
」
正確には“ 封印 ”だが・・・。天界に死は存在しない。
天蓬の返事はなかった。
足音が捲簾の拘束される牢の前で止まった。
暗くてその人物を確認する事はできないが、誰かということは既に、足音を聞いた時点で解っていた。それは幾度となくこの牢に足を運び、天蓬を苦しめる人物。
彼が殺意を向けたその人だ。
「 まだ、元気が有り余っているようだね? 」
捲簾は真っ直ぐに李塔天を見据えた。
蔑みの色を添えて。
「 元気なんてあるワケね−だろ?何時になったら殺してくれんだよ、それとも下界落ち?どっちにしてもさっさとしてもらいて−んだけど
」
「 ・・・ まあ、そうするのは簡単だがね。君達にはもう少し痛い目をみてもらわないと私の気が済まないものでね
」
「 ・・・ シュミ悪すぎ 」
吐き掛ける唾すらもう出ない。
捲簾は忌々しげに睨み付けながら、お決まりの鞭が振り下ろされるのを待った。
止まりかけた血が再び吹き出し、捲簾の意識が朦朧としてくるまでその責めは続く。
少しの呻きも上げないようにすることがせめてもの反抗だった。
捲簾の頭ががくん、と前に垂れて漸く李塔天はその手を止めた。
しかし、本当の苦しみはこれからだ。
李塔天はくるりと踵を返して牢を出ると、次は天蓬の方へ向かう。
同じ様に天蓬の肌が傷つけられる音が響きはじめた。
自分がやられるよりも一層苦しいその音に耳を塞ぐ事も敵わないまま、捲簾は顔を伏せ続けていた。
一頻り天蓬を鞭打った後、決まって李塔天は彼を犯した。
不快な音と天蓬の苦しげな呻き声、二人の荒い息遣いが響く。
胸焼けがする。
どうする事もできない自分の不甲斐なさに目眩すら感じていた。
――― あの時。
天蓬が一人で李塔天の部屋へ赴いた時。
慌てて後を追ったが間に合わなかった。
こんな事になるのなら追わずに、捕まった天蓬を助ける方法を選べば良かったのだ。
しかし、捲簾の立場ではそれも適わなかっただろうが・・・
。
―――― アイツは何をしているのか。何も知らずにいるとは思えないけれど・・・。
結局二人共、天蓬を止める事は出来なかった。
自分が何をしたかったのか、それすら解からなくなる。
後悔が捲簾の意識を蝕み始めていた。
最悪の時間が終わり李塔天が地下を出て行くと、捲簾は深く息を吐き出した。
「 ・・・ すみませんね、こんな事に付き合わせて
」
溜息が聞こえたのか、天蓬はぽつりと言った。
「 お前は最初からそのつもりだったんだろ−が。今更遅いんだよ。
だったら、・・・ だったら最後まで付き合わせろ。いきなり一人でやろうとすんなよ
」
「 ・・・ すみませ ・・・ 」
天蓬が言葉を切って、再びこの地下牢に何者かが足を踏み入れた事に気がついた。
暗い中浮かび上がる白いその姿に捲簾は思わず息を呑んだ。
「 何やってんだよ、お前ら 」
金蝉は静かに口を開いた。
「 お前らしくねぇな。失敗するなんて 」
「 ・・・ 失敗、するつもりはなかったんですが・・・
。刺し違えても彼だけは消すつもり、でした・・・
」
「 それがお前らしくねぇってんだ。何だその刺し違えるってのは
」
金蝉の言葉に天蓬が小さく笑う気配がした。
「 ・・・ 僕はね、別にこの天界を変えようとか、そんなおこがましい事思っちゃいないんですよ。・・・
そうする程の“理想”なんて、持ち合わせてません
。
実はここもそんなに嫌いじゃないんです 」
天蓬の言葉に捲簾は顔を上げた。
驚いたのは捲簾だけではなかった。金蝉が声を震わせて問い掛ける。
「 じゃあ、何で ・・・ 」
「 彼だけは許せないんですよ。あの男はここを狂わす。じわじわと内側から、自分の手を汚さずに・・・
。あの男に此処を好きにさせるのだけは我慢ができません
」
沈黙が襲った。
耳鳴りがする。
天蓬の言う事は理解できた。納得もする。
捲簾は今までの天蓬の行動を必死に思い起こしていた。
今まで、彼の何を自分は見てきたのかを考えていた。
――――― そして、辿り着いたその理由は目の前にいた。
「 天蓬、お前・・・ 、守りたかったのは、この天界か・・・
?こいつの居るここを守る為に・・・ 」
そして、初めて天蓬に会った瞬間を思い出した。
他に何も映さない、強い視線の先にあった、金蝉。
あの眼差しが彼の全てだったのだ ―――― 。
捲簾の言葉に金蝉は一瞬戸惑ったようだった。
「 ・・・ 手前、何言って・・・ 」
訝しげに捲簾を見る金蝉に、天蓬は静かに声をかけた。
「 金蝉、タイムリミットですよ。いくら貴方でもこれ以上ここにいてはまずい事になります
」
「 ・・・・・ 」
天蓬の声に押され、金蝉は小さく舌打をして背を向けた。その背に捲簾は問い掛ける。
「 おい。チビは大丈夫か? 」
「 ・・・ つい先刻、目を覚ました 」
その言葉に捲簾は安堵の溜息を吐いた。
「 じゃ−な、元気で 」
にっと笑う捲簾に金蝉は視線を向けた。
勿論、捲簾にその表情を読み取る事は出来なかったが、彼の苦しみとやり切れなさは手に取るように解かった。
「 ・・・ ざけんな 」
足音が遠ざかると同時に天蓬の声が冷たく響く。
「 貴方はいつも余計な事ばかり言いますね 」
「 余計な事?本当の事だろ?どうしてあいつにそれを言えね−んだよ、手前は
」
「 ・・・・・ 」
珍しく天蓬が言葉に詰まっているようだ。
「 ・・・ 未練に、なります 」
小さなその告白を捲簾は受け止めた。
何故か苦しみが襲い、息苦しさを感じる。
素直になれと促したのは自分自身だというのに・・・
。
これほどまでに他人を想えるという事に嫉妬を覚えた。お互いに、想えば想うほどその行動は不器用に空廻る。以前の自分ならば嘲るだろう。
現在は、ただ苦しかった。
「 だったら余計に、このまま終わっていい筈ないだろ?
」
「 ・・・ もう、終わりにしたいんです 」
「 また嘘か 」
「 ただ、李塔天だけはこのままにしておけない・・・
」
捲簾は苦々しくその言葉を聞いていた。
続き
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宵ちゃんに「これって続きがあるんだよね?」と聞かれたのがこれを書くきっかけでした。
自分では後は全然考えてなかったのですが、考え出したら止まらなくなってしまってこんな
変なものができました。アップしようかどうしようか悩んだのですが、折角書いたんだし!と開き
直りました・・・。
後編は既に半分以上出来ているので近日アップします。